今日、いつもの帰り道、JR有楽町駅に向かって歩いてたなりが、地下から階段を上る途中、ふと
大きな声を耳にしたなりよ。なにかまた募金活動でもしてるのかな?と思ってたら、ビンゴそのようなり。なにやら、拡張型心筋症という、生き残るには
海外での心臓移植を必要とする生後5ヶ月にも満たない
まなちゃんを救おう!をスローガンに、5人程の男性が声を振り絞り、総額
1億3600万円を目標とした
必死の募金活動を展開してたなりね。
去年9月に、
骨髄バンクのドナー登録してきたことをブログでも紹介したなりが、最近少しずつ、こういうことに貢献する必要性を感じてるなりよ。別に、いいことをしたい、と思っている訳ではないなりが、何かこう
誰かの熱い思いには応えていきたい。単純にそう思うなりね。
少し個人的なことで気持ちが乱れていた反動なのか、彼らの
絶叫に近い募金活動を見て、思わず
胸にグッときたなりよ。彼らの表情を見て、
溢れ出る涙をこらえるのに必死だったなり(ホント)。それだけ彼らは
本気で、
強い想いをもってこの活動に賭けていることが見て取れたなりね。個人的に出来ることには限界があるなりが、なけなしの募金(千円)をしてきたなり。こういう時、
人間は無力なりね。傍観することしか出来ない、できることは一時的にでも
想いを共有すること。それだけなり。
さて、今回の募金活動を経て、2つのことを思い出したなりよ。一つ目は、確か1998年夏だったと思うなりが、新宿南口改札を出た歩道で、
北朝鮮に拉致された横田めぐみさんを救う会の募金&署名活動に遭遇したことなり。今でこそ、拉致問題は解決に向けた一歩を踏み出したところなりが、当時はまだ国を挙げて動き出すのは
絶望的な雰囲気だったなりよ。誰も興味を持たず、傍を通り過ぎる中で、中途半端に国際政治に興味津々だった自分は、思い切って話し掛けてみたなりよ。絶望的な状況の中で、時間を費やすしかない彼らを、あの時も自分は見守ることしかできなかったなりね。でも自分の行動が、少しでも横田さんたちの力になったのかなと思うと、なんだか感慨深いものがあるなり。あの時の彼らも、
強い想いを持ち続けて活動してたんだと思うなり。
2つ目は、自分が
小6だった時の話なり。学校でたまに募金活動があるなりが、偶然その時、自分は親にもらった千円を募金したなりよ。それがきっかけで、なぜかクラスが
募金ブームになり、連日クラスの友達も
お札を持参して募金箱に入れていったなりね。当然、小学校1クラスの募金額にしては、破格の募金額を記録し、見事表彰されてしまったなりよ(笑)クラス全体で、なんだか良いことしたなって雰囲気なったのを覚えてるなり。今考えると、小さい頃はお金でなく、
ボランティアという形で地域貢献したり、実際に体を動かして社会貢献するのがいいと思うなりが、当時は子供心にも妙な達成感を感じたなりよ。
昔、「お金持ちになったら、お金を寄付して人を助けたい」みたいなことを言ったら、父親に「
お金持ちにならないと寄付できないのか?」と言い返された記憶があるなりよ。寄付って行為は、どんな人にでもできるなりよね。だから、金額ではない、その人にとっての
想いが寄付になるってことを痛感させられた言葉だったなりよ。ビル・ゲイツの寄付する
1万ドル(100万円)より、年収300万のフリーターが寄付する
10万円の方が、余程価値があるなりよ。稼いだ
余り金でなく、生活資金を削って賄った部分が、
本当の意味での寄付になると思うなり。それは時間にしても、お金にしてもそうなりよね。
ふと、そんなことを思った一日だったなり。
pic1:まなちゃんを救おう!の募金活動